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2016-10-05

北村薫「遠い唇」の感想 何気ないことに潜む日常の謎

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フラっと本屋に立ち寄ったら北村薫さんの新刊「遠い唇」が発売されていました。

北村薫さんといえば「円紫さん」シリーズや「ベッキーさん」シリーズなど、
いわゆる日常に潜む小さな謎を扱ったミステリーが有名なミステリー作家。

自分は学生の頃に「円紫さん」シリーズで初めて人が死なない推理小説に触れました。
殺人事件は起こらないものの、人の心の機微、ちょっとしたすれ違いや勘違い、優しさや醜さ、
そうした感情がやさしい文体で表現され、ストンと腑に落ちる読後感がとても素晴らしい作家さんです。

「円紫さん」シリーズは1998年の「朝霧」をもって長らく書かれることはありませんでしたが、
2015年「太宰治の辞書」でまさかまさかのうれしい復活。
なんと作中の世界も現実の世界と同じだけ時間が経過していて、
大学生から社会人になりたてだった主人公は、すでに中学生の男子の母に。

登場人物が皆年齢を重ねていたのもうれしい驚きでした。

2016年9月末に出版されたばかりの「遠い唇」も北村薫さんらしい
日常に潜むちょっとした謎とその謎解きを中心にした7つの短編が収められた本になっています。
(最後のお話「ビスケット」はちゃんと(?)人が殺される推理小説です。
このお話では90年台前半に書かれた「冬のオペラ」の登場人物が
円紫さんシリーズ同様20年ぶりくらいに登場します。)

それにしても北村薫さんは現在60歳半ばくらいのお歳のはずなのですが、
なぜその手によって紡ぎ出される文章はこんなにもみずみずしく、
人の感情が鮮やかに表現できるのでしょうか?
リアルタイムで「円紫さん」シリーズを書かれていたのが40歳代の頃。
その頃と読む人に与える印象は全く変わりません。
しかもそれでいて表現技法やバックグラウンドの知識などは明らかに厚みを増しています。

若い頃と円熟してからでは文章そのものから受ける印象が全く変わってしまう作家さんが多い、
というかおそらくその方が自然な中、
いつになっても安心して読むことができる稀有な作家さんだと思います。

今回描かれた7つのお話の中で自分が一番いいなと思ったのは、表題作の「遠い唇」。
ふとしたきっかけから思い出した、数十年前、学生時代の先輩との記憶。
あの時解かれることがなかった先輩の記した暗号には何が隠されていたのか?
暗号が解かれた後の気持ちと、
もし数十年前にこの暗号を解いていたら存在していたかもしれない

今となっては確認のしようがない別の時間線の未来。
主人公の悲しいというわけでも、懐かしいというわけでも、後悔というわけでもない
数十年という時間の重なりがフィルターになった静かな感情を行間から感じることができました。

2015年に刊行された「太宰治の辞書」や今作最後の作品「ビスケット」では、
登場人物たちが20年近い時間を飛び越えて読者の前に姿を表しましたが、
北村薫さんは「時間」の扱い方に非常に優れた作家さんだと思います。
・・・って「スキップ」とか「ターン」を書いてらっしゃる方ですもの、当たり前ですね。

そういえば「遠い唇」では「コーヒー」が謎解きの鍵になっています。
自分の学生時代にこの暗号文をもらっていたら余裕で解いてたのに(笑)
コーヒーが好きな方は謎解きを読み進める前に
自分できちんと暗号を解いてみるのがオススメです。
きっとものすごく甘酸っぱい気分になれること間違いなし。

北村薫さんらしいという意味では「パトラッシュ」というお話もおすすめ。
人というのは些細な事からアレコレ悩んだりするものですが、
解けてしまえば「なーんだ、そんなことか」ということがよくあります。
その実例をやさしい視点で体験することができる作品です。

その他にも宇宙人が「我輩は猫である」「走れメロス」「蛇を踏む」を読むと
どういうことになるのかを描いたちょっとだけSFチックな不思議な作品「解釈」や、
夫が遺した謎の俳句(らしきもの)を読み解く「しりとり」など、
北村薫さんの魅力がぎっしり詰まった本になっています。
知っている方はもちろん、北村作品を読んだことがない人にも、
この本をきっかけに「円紫さん」シリーズや「ベッキーさん」シリーズを
手に取ってもらえたらいいなーと思っています。

ぜひご一読あれ。

 

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